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ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調 | フルトヴェングラー指揮/ベルリン・フィル(1942)

 非常に残念なことに最初聴いた時、この演奏の素晴らしさに気づくことができなかった。だがその後、ギュンター・ヴァント、オイゲン・ヨッフム、カール・シューリヒトといったブルックナーを得意とする指揮者の盤を聴いたりするうちに、最初に聴いたこの演奏は実は凄かったんじゃないかと思うようになり、今日、改めて聴きなおしてみた次第である。フルトヴェングラーが第二次世界大戦下の1942年の10月25日に、ベルリンのハーモニーザールにてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と行ったライヴ録音である。

 ブルックナーの交響曲第5番は、国によっては「ゴシック」という愛称が付けられているようだが、実際に聴いてみるとまさに堂々とそびえたつゴシック建築のような趣がある。全体を貫くのは一切の大衆迎合的な要素を頑なに拒むブルックナーの精神であり、ブルックナーそのものだ。決して聴きやすいとはいえないが、特に全体に網の目のように張り巡らされた動機と対位法による複雑な構造を理解すると、この曲を聴く喜びは格段に増すことと思う。最初はスコアを見ながら聴いてみるとよいのかもしれない。というのも、このフルトヴェングラーの演奏こそ、スコアのあるなしで、私にとっての意味が変わった演奏だった。

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、1886年に生まれ1954年に没したドイツの指揮者である。20世紀が生んだ天才指揮者の中でも、これほど今日まで熱狂的なファンを獲得し、評価を受ける指揮者もいないだろう。カラヤンに代わるまで、ベルリン・フィルの音楽監督として数々の名演を繰り広げ、バイロイトで行ったベートーヴェンの第9は伝説的な名演といわれている。

フルトヴェングラー

 それなのに、である。このフルトヴェングラーが指揮したブルックナーの演奏というのは、いまひとつ評価されていない。よく言われるのがフルトヴェングラー特有の、あのリズムの揺らしである。時にたたみかけるようにアチェレランド(加速)したり、逆に一気にリタルダンド(減速)したりといった演奏が、深い信仰心を持ちつつ大自然や宇宙そのものを表現したブルックナーには人為的過ぎるなどといわれる。実はかくいう私も、ある時分まではそのように思っていた。ところがある時、スコアを手にしてこの音楽をじっくりと聴いてみると、これは実に考えられた、加速なり減速なりであることが分かった。例えばディミヌエンドと楽譜にあるところでのリタルダンドや、逆に急加速の後の静寂。これなど、ブルックナーの原典版を深く読み込んだ人間でなければできない、あまりに自然なリズムではないか。これまでフルトヴェングラーの振るブルックナーについて、いかに皮相的な感受しかしてこなかったのだろうと、深く反省した。

 10:25あたりから始まる第1楽章247小節からのアダージョ。わずか12小節の、比類ない弦の美しさとフルート。
ブルックナー交響曲第5番第1楽章
ブルックナー交響曲第5番第1楽章2

真っ赤に燃えあがる終楽章564小節目からのコーダ。
ブルックナー交響曲第5番第4楽章

 今更ながら思い出したのだが、以前このブログでも取り上げた朝比奈隆氏の回想を読んだ時、朝比奈氏がフルトヴェングラーと面会した時に「原典版でやらなくては」ということを言われたとの記述があった。フルトヴェングラーこそブルックナー音楽の真実の姿を描き出そうとした人だったのだ。リズムを揺らすとか、そういった枝葉末節にこだわるべきではない。この生気漲るエネルギッシュな演奏もまたブルックナーである。そうした聴き方があってもいいんじゃないか。

[試聴]
http://ml.naxos.jp/work/307407

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ブルックナー 交響曲第7番ホ長調 | 朝比奈隆指揮/大阪フィル(1975)

 前回に引き続いてブルックナーを聴いている。この交響曲第7番は1881年から丸二年近くをかけて作られた。彼の交響曲の中では最も聴きやすい部類に入り、昨日取り上げた6番とは対照的に今日でも演奏機会に恵まれている一曲である。特にワーグナーの死を予感しながら書き進められ、実際にクライマックスの執筆中にワーグナーの死を知った第2楽章は、ブルックナーのワーグナーへの追悼の想いが刻まれている。清澄なフルートと弦のピツィカートに続く、185小節アウフタクトからのワーグナー・チューバによる旋律など、涙がでる。

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今日聴いたのは、生涯をブルックナー演奏に捧げた故・朝比奈隆氏が大阪フィルハーモニー交響楽団と行ったヨーロッパ演奏旅行にて、ブルックナーの聖地である聖フローリアン教会で行った奉献演奏の記録である。

 「アウトバーンを右手に出て低い丘陵地を通り抜けると、小高い丘を中心につつましく寄り添う家並みの向こうに写真で見覚えのある鐘楼が見える。聖フローリアン寺院である。私たちにとって、そこはローマ以来の由緒ある古寺としてではなく、アントン・ブルックナーがかつて住み、音楽をつくり、そして今はその地下に眠る「聖なる地」であった。今度の日程中、リンツでの演奏会が市内のブルックナー・ホールでなくてこの寺院で催されたと知らされた時、私は幸せに酔う思いであった。この日の午後、そこで私たちがその交響曲第七番を演奏するということが現実になろうとしているのである。(中略)私はかなり遅い目のテンポをとり、広間の残響と均衡をとりつつ演奏を進めた。十分な間合いを持たせて第二楽章の最後の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が一つ二つと四打。私はうつむいて待った。ともう一つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の余韻が白い雲の浮かぶ空に消えていった時、私は静かに第三楽章への指揮棒を下ろした。」(朝比奈隆著「楽は堂に満ちて」より)

朝比奈隆 楽は堂に満ちて


 ブルックナーが足元に眠る同教会のベルモアザール(大理石の間)、残響7秒という豊かな響きが大阪フィルの音を一層優美な音楽に仕立てている。またここでの朝比奈&大阪フィルの気合の入り方は尋常ではなく、一期一会で一撃必殺な会心の演奏を繰り出している。上に引用した文章でも「かなり遅い目のテンポ」とあるように、この遅いテンポのために、長すぎる残響に埋没してしまいそうな細部も、ある程度までくっきりと浮かび上がる。大阪フィルの演奏も、全体を通して強烈なエネルギーに満ちながらも、この日は無駄な力みがなく、がならない。会場、オーケストラ、指揮者が混然一体となって作り上げた、神々しいまでの音の大宇宙。なんと美しいのだろう。


[試聴]
http://www.hmv.co.jp/product/detail/136953


 天上の美しさに心奪われた後、ふと外に目をやると、夏らしい風景が広がっている。かんかんと照り続ける太陽を受けてうちの菜園でも野菜がすくすくと育っていた。今夜はうまい野菜が食べたくなった。

トマト
ナス

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ブルックナー 交響曲第6番イ長調 | カイルベルト指揮ベルリン・フィル(1963)

 アントン・ブルックナーという作曲家について、よく語られることがある。「彼の音楽は大自然や宇宙の姿そのものであって、ゆえに聴き手を選ぶ。彼の音楽を『理解しようと』してはいけない。大自然に身を任せるが如く、ただその音楽に身を任せればよい。自然とブルックナーの音楽が私たちに近づいてきて、私たちを包み込み、その良さが分かるのだ。」といったところだろうか。確かにブルックナーの音楽は特殊で、こうした聴き方はまったく間違っていない。ただ彼の遺した11曲の交響曲を聴いていると、どうも心を無にして大自然に身を委ねることだけで十分な魅力を感じる曲と、そうでもない曲・・・むしろ幾重にも折り重なる楽曲の構造を一枚一枚丁寧に観察し、「積極的に理解して」初めて分かる味わいをもつ曲とがあるとも最近思うようになり、今日聴いている第6番もその一つじゃないかと感じるこの頃である。

 ブルックナーの音楽が特殊だという点については、いまさら書く必要はないかもしれない。彼の音楽は、最初に聴くと面食らう。西洋音楽がそれまで培ってきたやり方とはまるで違う語法で書かれ、期待すべき部分に期待すべきものがなく、まったく唐突に何かがやってくるからだ。ただ一たびその味わいと深さを覚えてしまうと、今度はこれほど麻薬的で来る日も来る日もこればかり聴いていたいと思う音楽はない。壮大な音の大伽藍の中で、小さな自分が大きな音楽と一体となる恍惚の瞬間がそこにはある。


アントン・ブルックナー


 1824年、ベートーヴェンの第9交響曲が初演された年にオーストリアで生まれたこの作曲家は非常に遅咲きの人だった。最初の習作交響曲を1863年、ほとんど40歳近くなってから書き上げ、以来72年の生涯を閉じるまで、交響曲を中心に音楽を書いた。熱心なワグネリアンとしてワーグナーの音楽に傾倒し心酔する一方で、対立する新古典派の象徴ともいえる交響曲を、しかも一曲一時間を超すような長さで書いたが、そのほとんどの初演が失敗。見かねた友人らがあくまで「善意」で彼の作品を手直ししてやり、生涯に渡る作曲活動と並行して、生涯にわたる改訂も行った。今日に残る作品を書き上げた作曲家の中で、自作に対してこれほど自信がないというのも珍しい。

 まあそんなわけで今日はブルックナーの交響曲第6番を聴いている。スコアを読めば明らかだが、一つの見方として、この曲はリズムの音楽である。リズムによるモティーフが各部で自由に運動しながら、時に息をのむほど美しい瞬間を描いたり、エネルギッシュな爆発となったりと、伸縮自在に変化して全体を引き締めている。この第6交響曲はなぜかブルックナーの交響曲の中でもあまり人気のない曲で確かに分かりやすさという点から判断すると入門に適さない曲であるかもしれないが、じっくり味わうと素晴らしい魅力が随所にちりばめられた名曲である。

カイルベルト


 さて今日聴いている演奏であるが、これは1963年に録音された、ヨーゼフ・カイルベルト指揮・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のものである。剛直で職人気質の指揮者が、最盛期のベルリン・フィルと渾然一体の演奏を繰り広げている。第一楽章冒頭の低弦の語りに込められた情報量一つとっても群を抜いている。非常にオーソドックスに、しかし凡庸にならないこうしたカイルベルトのうまさは、特に対位法的な第2楽章で顕著な魅力を発揮しているが、もちろんすべての楽章に言えることだ。重層的に重なり合う濃密な一つ一つの線、リズムといったパーツが非常にはっきり、くっきりと浮かび上がる。作為を感じさせない実直なカイルベルトの棒によって、この曲が本来持っている真の美しさが際立つのである。数ある第6番の演奏の中でも、私が感じる中で最高の演奏。1963年の演奏であるが、録音も非常にうまくいっており、古めかしさを感じさせない。


[試聴]※HMVのサイトにて
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2754085


もうひとつ、チェリビダッケがミュンヘン・フィルとスゴイことをやっている。

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