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R.シューマン 「暁の歌」Op.133 | ピョートル・アンデルシェフスキ(Pf)

 ピョートル・アンデルシェフスキというピアニストについて、「音楽の友」、「ムジカノーヴァ」、「ショパン」といった月刊誌が、最新号にあたる8月号で取り上げている。先月に来日した演奏会の評価が高かったことが一番の理由だろうが、この人のライブ録音を今日Youtubeで見つけるにあたり納得した。 

 曲はR.シューマンの「暁の歌」Op.133の第5曲(最終曲)。シューマン最晩年の1853年、しかも彼が精神を病む直前に完成させた最後の曲である。この曲を完成させた翌1854年、精神錯乱に陥ったシューマンはライン川へ飛び込むのである。


暁の歌1


暁の歌2


 「森の情景」や、この「暁の歌」など、最晩年に書かれたピアノ作品を聴いていると、この法学部卒の作曲家は、その音楽家としての出自に由来するアマチュアリズムと、枠に収まりきらなかった自身の天才とのはざまで、独り、いったいどこにたどり着いたのだろうと思う。それほどに痛々しくも美しいシューマンの思いがある。

 アンデルシェフスキの演奏は、聞き手に朴訥と自己の内面を語りかけてくる。最初はとりとめのない話に聞こえるが、気がつくといつのまにか演奏者と一対一でしっかりと向かい合っているのである。それゆえに受け取るメッセージも内面的で個人的な深さがあって、各誌が取り上げているアンデルシェフスキの固有性・特異性というのはこうしたものなのだろうかと思う。漂白された世界の中で、シューマン、アンデルシェフスキ、そして聴き手という三者だけが存在している。




http://www.youtube.com/watch?v=Jk8pskJ-7e4


ピアニシモの美しさが耳に残る。


テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

コメント

やはり、シューオタ・・・

こんにちは。オイゼビウスさん。
「夜の曲」に引きつづき「暁の歌」とは~~~。
やはり・・・シューオタです~~~。
先をこされた気がしないではないのですが、しかもアンデルシェフスキ・・・。
実は気になるピアニストさんのお一人で、私がシューオタの師と仰ぐお方がべた褒め。
http://robert-schumann.com/novelletten/index.php?itemid=1486&catid=24
「暁の歌」のことは雑誌にもおそらく掲載されているとは思いますが(実は読んでいなことがバレバレ・・・)、YouTubeには考えが至りませんでした。
素晴らしい情報をありがとうございます。
私もまだまだネット修行が足りないですね。

シューマンのピアノ曲といえばほとんどが若い頃のもので、晩年のピアノ曲が本当に少ないのが残念です。しかも小曲ばかりです。
若い頃のシューマンは、たこさんもおっしゃるとおり、「枠に収まりきらなかった自身の天才」を、シューマン自身ももてあまし鼻面を取られきりきりまいしているような、とでもいうのでしょうか。その凄味に思わずたじろいでしまいます。それが若さとかアマチュアリズムからのものであったとしても、それこそがシューマンの魅力に違いありません。
晩年のピアノ曲には若い頃のそうした凄味は無くなってきますけれど、別の凄味が顔を出して来たような気がします。シューマンの音楽には幻想的という表現がよくつかわれるのですが、晩年のシューマンからは幻想よりは幽玄的な新しいある種の形式美とでもいうのかそんなものを感じるのは私だけでしょうか。
もっともっと長生きしてくれたら、どんなピアノ曲を書いてくれたのかと残念でなりません。

でも完璧主義者のシューマンことだから、こんな曲は許せないとかで過去のピアノ曲をすべて手直ししていたりして・・・・
なにかの本で読んだのですが、のちにシューマンは「ハ長調幻想曲」を「不毛のがらくた」と言ったとか言わないとか・・・あんなすっごい曲なのに・・・
それはそれで困る・・・・(笑)

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Re: やはり、シューオタ・・・

またまたお返事遅くなってしまいすみません。承認だけして家に帰ったらと思っていたら、こんな時間になってしまいました。私はシューマンについて、はるりんさんほど深く、また広く知ってはいないのだと日々痛感しています。なので、こうして書いたものを読んでいただくことが恥ずかしいと思う反面、こうしてコメントいただけることで勉強させてもらっている幸せというのもあります。ただいずれにしてもこの演奏は、どうしても何か書いておきたいと思わせる不思議な力があったんです。

 アンデルシェフスキの徹底して内向的なアプローチによるシューマンが、どうしてこのようなとてつもない魅力をもたらすのかと今日一日考えていて、ふと吉田秀和氏が1950年に「近代文学」にお書きになったこの文を思い出しました。

「多くの人のいうように、ベートーヴェンは音楽のロマン化への水門をきりおとした人であるにせよ、彼にはどうしても越すにこされぬ一線があった。彼は、ロマン主義の世界を予覚し、予言さえしたが、ついに古典主義の此岸にとどまった。この一線を、最も明確に超えた人、それがローベルト・シューマンである。・・・・・・(中略)・・・・・・シューマンは明確にとび越えた。そうして、一挙にその核心に到達した。まず、彼が精妙な天分に恵まれたディレッタントだったからだ。シューマンは、音楽史上、古典によるきびしい訓練を生涯ついに終了しなかった、最初の一流の音楽家だった。」

 こうして吉田氏は、ロマンティックな音楽とは、そこにある「気持」をこめずには弾けもせず、聴かれもしない音楽であるとし、この「気持」は外からつけ加わるものではなく、自身の心がおのずから、不思議なざわめきをもってときめかずにはいられないとおっしゃってます。アンデルシェフスキの徹底的に自己と対峙し、内面へ深く探求を行うことから生み出される音楽というものは、まさにシューマン的な音楽であり、その魅力ははかり知れないものがありますよね。

 今日のコメントを拝読し、はるりんさんのおっしゃる「幻想よりは幽玄的」という表現がとても胸に落ちました。幽玄の境地に達したシューマンが書く形式美・・・いろいろ彷徨いもしますが、一つの境地に達した音楽なんだと思います。はるりんさんと同じく、パーフェクショナリストぶりを発揮したシューマンが書きなおした作品を見てみたいという気持ちと、元の作品を存分に味わいたいという気持ちが同居する、複雑な心境です(笑)。それはそれで、ホント、困ります(笑)。
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