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ブラームス ピアノ・ソナタ第3番ヘ短調Op.5 | デトレフ・クラウス(Pf)

「彼は誠に立派な風貌を持っていて、みるからに、これこそ召された人だと肯かせる人だった。ピアノに坐ると、さっそくふしぎな国の扉を開き始めたが、私たちはいでてますますふしぎな魔力の冴えに、すっかりひきずりこまれてしまった。彼の演奏ぶりは全く天才的で、悲しみと喜びの声を縦横に交錯させて、ピアノをオーケストラのようにひきこなした。」(シューマン著「新しい道」より抜粋 *1 )

 この間の記事で、ブラームスの人生の転機の一つが、ヴァイオリニストのレメーニと出かけた演奏旅行のことを書いたけれど、この演奏旅行は波乱に満ちたものだった。そもそもがハンガリー革命にかかわって追放されてきた流浪のヴァイオリン奏者と、かたや引っ込み思案でネクラなブラームス。うまくいくはずがないのである。1853年4月19日にハンブルクを立った二人であるが、それでも幸いだったのはレメーニがウィーン音楽院時代の学友で、当時既に世界一流のヴァイオリニストとなっていたヨーゼフ・ヨアヒムのいるハノファーを訪れ、彼と会わせてくれたことだろう。レメーニにしてみればハノーファーで演奏会を開催する糸口をと思ってヨアヒムを訪ねたというのが本音なのだろうが、当のヨアヒムは2歳年下のこの無名の作曲家の中に、しかと天才を感じ取りすっかり意気投合するのである。これがのちのブラームスにとって重要な助けとなる。結局レメーニが革命に関わっていた人物ということで演奏会は開けず、そればかりか二人は強制退去を命じられてしまうのだが。

 その後二人は当時のヨーロッパ音楽の帝王フランツ・リストを訪ねるが、ここでもブラームスの引っ込み思案が災いしている。リスト本人からの要望で作品を聴かせてほしいと言われたのに、ブラームスはアガってしまって弾けない始末。最終的にはリスト自身が「初見で」ブラームスの作品4のスケルツォを見事に演奏したという。こうしたブラームスの奥手ぶりについにレメーニが愛想をつかし、ブラームスは演奏旅行の途上で別れを告げられてしまうのである。その後、ヨアヒムのところに身を寄せたブラームスは、秋になるとライン川流域を旅し、そこでシューマンの作品に出会う。これがきっかけとなってブラームスはシューマンの住むデュッセルドルフを訪ねることになるのだ。

 秋も少しづつ深まり出す9月30日。ブラームスはついにシューマン家を訪問する。そこにはローベルトとクララの夫妻がいて、ブラームスは作品1のソナタを弾いたことは前に書いた。これに感動したシューマンは、10月28日付の「新音楽時報」(シューマンが創刊し、現在刊行されているドイツの有名な音楽雑誌)に「新しい道」というタイトルでブラームスを紹介する記事を書いた。

「すると果して、彼はきた。嬰児の時から、優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が。その名は、ヨハンネス・ブラームスといって、ハンブルクの生まれで、そこで人知れず静かに創作していたが、幸いにも教師にその人を得、熱心にその蘊蓄を傾けてもらったおかげで、芸術の最も困難な作法を修めたすえ、さる高く尊敬されている有名な大家の紹介によって、先日私のところにきたのである。」(*2)

 こうして無名の作曲家から一躍世間に知れることとなったブラームスにとって、この1853年という年は、どれだけ充実し、また激動の1年だったのだろう。

 この時期に、このデュッセルドルフで書かれたのが今日聴いたヘ短調のピアノソナタ。1番、2番を経て若きブラームスがたどり着いた、ピアノソナタの到達点である。

dkraus.gif
http://ml.naxos.jp/album/CTH2287


[試聴]※演奏は今日聴いたものではないけれど
http://www.youtube.com/watch?v=VZ__mkglvaY


*1-2:「音楽と音楽家」(吉田秀和訳・岩波文庫)より引用

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

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